2017年5月8日月曜日

ファッションとは絵のようである、ということ

先週のWEBの記事の中で、
「とにかく絵になればいい」ということを書きました。
それがファッションであり、おしゃれであると。

この考え方は別に誰かや学校で習ったわけではありません。
中学生のころからずっと外国のファッション誌の写真なんかを見続けたことで、
知らない間にそう考えるようになっていました。
(もちろん私が演劇や映画、美術好きだったという理由もある)

今、アメリカのファッション歴史家の書いた本を読んでいます。
その中に、ファッションとは視覚芸術の1つであり、
西洋の芸術において、絵になることが、すなわちファッションであるという意味の文章を
見つけて、
私が見続けることで得た考え方が正しいものであると、
再度、認識しました。

ファッションとは絵のようである、ということです。
素晴らしい絵であるということが最上です。
だから、そのシーンに合った色合いやスタイルが求められ、
それがぴったりになったとき、それはファッショナブル、つまりおしゃれに見えるのです。
(それはもちろん、肌の色に合う色を着ればいいなどという話ではありません)

この著者は、その傾向はデューラーの頃から認められると書いているので、
初期ルネッサンスからということです。
絵として美しいかどうかのこだわる点は、
ヨーロッパの建築や街並み、庭を見ても明らかです。
彼らのこだわりは常にそこです。

ファッションを発展させたのは、
いかに絵として素晴らしいかという点と、
セクシュアリティの表現の2点であるとこの著者は言っています。
つまり、洋服はこの点が達成されたとき、
一番ファッショナブルになるのです。

逆に言うと、
絵としてでたらめで、セクシュアリティ無視でも、
西洋の服はファッショナブルになり得ないということです。

そう考えると、いろいろなことに合点がいきます。
私が「おじさんおばさんルック」が洋服としてよく見えないのも、
これが理由だとわかります。
それは西洋の服の歴史の文脈からはみ出ているからです。

一方、民族衣装は、その色や装飾から身分や年齢、出身を規定するものだとしています。
つまり、その色、柄、持ちモノは、身分をあらわすために選ばれるのであって、
絵として美しいかどうかの問題ではないのです。

長いので続きは明日。


ちなみにこれは原田知世さんが江ノ電の鎌倉高校前から江ノ島を望む、みたいなPVなんだけれども、絵として成立しているので、これはファッショナブルであるということ。
ファッショナブルであるということには、ブランドのマークなど必要ないということがわかります。
自転車を服とリレートさせ、バッグのブルーは海と合わせたと考えればよいです。


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