2017年8月19日土曜日

なぜ着る服がないと思うのか

いつも言っていますけれども、
服というのは必ず未来の自分のために買いますよね。
未来は明日かもしれないし、1カ月後かもしれない。

着る服がないということは、
過去の自分の選択が間違っていたということです。
自分が過去に予想した自分像と、現在のリアルな自分がずれている、
ということ。
そのずれが小さかったら微調整ですむけれども、
大きければ大きいほど、調整が難しくなります。

私たちは毎日、過去の選択の上に生きています。
服を着るというのは、その象徴的な行為。
学校も、仕事も、結婚も過去の選択。

過去の選択が本当に合わなかったら、
転校したり、転職したり、離婚したり、
大変ですけれども、行動力がある人は動きます。

では、服の選択は何を基準になされるのか、ということです。

衣服は人と社会との最初の接点です。
衣服の選択は、自分の社会的な立場の表明であり、
社会的なアイデンティティでもあります。

学校の制服は、今、私はここの学校の学生ですよという社会的なアイデンティティの表明です。
そのアイデンティティと自分が一致しない、絶対嫌だと言うのなら、
それを脱がなければなりません。

囚人に囚人服を着せるのは社会的なアイデンティティをはく奪するためです。

服を選ぶとき、
私はちょっと先の実現可能な目標を考えてくださいと言っていますが、
それは、未来の社会的アイデンティティのためです。
それはいまよりちょっと違うはずだから、
それを先取りしなさいよ、ということです。

私たちは成長します。
ですから、社会的アイデンティティにも少しずつ修正をかけていきます。
これがスムーズにできていれば、
毎日、朝起きて着る服がない、ということはありません。
これができている人は、
例えば転職や離婚といった、社会的アイデンティティが変化する場合においても、
容易に対応することができると思います。
ただ、そのときの変化は急激なものかもしれません。
全部、以前の服を捨てる、というような。

では過去も現在も未来も着る服がないと感じている人とはどういう人なのでしょうか。
それはね。
そ、それは・・・
社会的アイデンティティを自分で育ててこなかった人です。
自分で育てなかったので、自分ではわかりません。
子供のころは親が決めたものを着て、
学生になったら学生服を着てと、
そこまでは普通ですし、それでよかったでしょう。
けれども、問題はその先ですよね。

ここで誤解してほしくないのは、
私が使っている「社会」は、
日本で「社会人」「女性の社会参加」というようなときに使う「社会」ではないということ。
だから、働いていお金を稼いでいる人は社会に属していて、
そうでないときば属していないとか、そういう意味での「社会」ではないです。
普通、社会学で使うのはそんな限定的な意味ではないです。
だから、主婦は社会的アイデンティティなんてないよ、などという意味ではありませんので、
誤解しないように。


実は、私が「実現可能な未来の目標は何ですか?」と聞いただけで、
泣いて帰ってしまった方がいます。
(お代はいただきませんでしたよ!)
最初、意味がわからなかったんですけれども、
あとでわかりました。
その方は、自分で社会的アイデンティティを育ててこなかったんです。
私は未来の実現可能な目標は、いまより健康な自分でもいいと、言っているでしょう?
何も社会的な成功とか、そんなことは言っていない。
けれども、自分で育ててこなかった人にはそれさえないのです。
そうすると、何を着ていいかわからない。
衣服は社会との接点だから、
社会的なアイデンティティがなかったら、着るという行為は、
ただ単に暑さ寒さをしのぎ生活するための行為になってしまいます。
別にそれでもいいんですよ。
いいのだけれども、人は社会的な存在なので、
それだけでは不安なのです。

自分で自分を育ててこなかった人にとって「ない」のは衣服じゃなくて、
社会的アイデンティティです。
それを衣服の問題にすり替えています。
買っても買っても満たされないのは服じゃなくて、依存症の問題であるのと同じようなすり替えが、
ここでもなされます。

自分で自分のアイデンティティ をしっかり育ててこなかった人は、
どんなに服を買っても、
どんなにたくさんの服が売られていたとしても、
「着る服がない」と言い続けるでしょう。
衣服のせいにしている限り、その問題が解決することはありません。


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2017年8月18日金曜日

皆さん、どうしておしゃれになりたいんでしょう?と聞かれたけれども

皆さん、どうしておしゃれになりたいのでしょうか?と、
聞かれたのですけれども、
皆さんがどうしておしゃれになりたいのかは、
私は存じません。
それについてはリサーチしていないです。
それは学校で、みんな、どうして勉強したいの?と、聞かないのと同じ。
コルドンブルーにお菓子作りを習いに行って、
どうしてお菓子を作れるようになりたいのかって聞かれないのと同じ。
私にわかるのは自分のことだけです。

で、薄々感づいてはいるだろうけれども、
私がおしゃれというか、ファッションに関心があるのは、
音楽や美術に関心があるのと同じ並びで、
決して自分がおしゃれして誰かに見せびらかしたいってわけじゃありません。
それなので、いつも作る側に関心がある。
だから、スタイリストさんには関心がほとんどないです。
最近見始めたのは、クライアントさんたちがいろいろ言うので見ただけであって、
そうでなかったら、たぶん見ない。
見るとしても、クリエイティブなスタイリングをしている人、
つまり、これ、普通に着て歩けないなというようなスタイリングをしてくる人のだけで、
通勤着のスタイリングとか、全く興味ないです。
例えば好きなのはティム・ウォーカーの写真とスタイリング。
そういうのは大好きだけれど、ほとんどの人は、そういうのに興味がないでしょうね。

見せびらかしたいわけではないので、
買ったものをどんどんインスタグラムにアップするというのは、
逆に嫌です。
自分のものなんて、見せたくないです。
また美術はただ見たいだけであって、それを家に持って帰りたいわけでもないのと同じで、
たくさんの服を持って帰りたい、所持したいという欲望はゼロです。

私はただ単に、いつも自分が心地よく、その場にフィットしている感じでいたいだけで、
それ以上はないな。誰かに見られたいとかも、ない。
むしろ、見なくていいよ、と思っています。私のことは見なくてよい。

皆さんと接していてわかるのは、
私のようにファッションに興味のある人は、もはや少数派であるということです。
ほとんどはファッションなんて興味がない。
興味はないけれども、服は毎日着なきゃいけない、
どうせ着るなら、ちょっとおしゃれなほうがいい、
その程度の人が大半じゃないかと思います。

あとは、おしゃれじゃないと批判の対象になるとか、
「ださい」と言われるのでそれが嫌とか、
そういうのはあると思う。

もちろんほかにもいろいろな理由がある。
けれども、おしゃれをすることで何かを実現しようとすると、
それは失敗に終わると思う。

おしゃれになって人生が変わるとか、
おしゃれになったらハッピーになるとか、
そんなことは、私は言えません。
それは、このブレスレットさえ持てば幸せになれるという、
あの広告に似ている。
そんなふうに人をたぶらかすことは、
私にはできません。
幸せとは、ユングの言うところのセルフになること。
おしゃれしたって、セルフになんて、なれません。

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2017年8月17日木曜日

葛藤があるから努力できる

きのう、衣服は父の愛の代替品であるという仮説を立てました。
父的なものとは、社会という意味ですから、
父の愛が必要なのは、社会的に認められていると感じるためです。
皮膚の外側は、プライベートの外ですから、社会との最初の接点です。 
父からしっかりと認められて育てられた人は、
何らかの結果を出しても出していなくても、
社会的にも認められていると感じることができるので、
父の愛の代替品である衣服に依存することはないでしょう。
依存とは、つまり買っても買ってもまだ渇望するということです。
(スティーブ・ジョブズは渇望してなさそうです!)

本当に必要なのは父の愛、つまり父からの承認ですが、
衣服は単なるその代替品なので、決してそれを満たすことはできません。
だから、自分で自分を認めることが大事であると書きました。
では、自分で自分を認めるとは、具体的にどういうことでしょうか。

父の愛とは、社会からの承認です。
ですから、自分で自分を社会的に承認される存在に育てればいいのです。
社会的な承認は、何も衣服がもたらすわけではありませんし、
社長になるとか、そんな地位を得るということばかりでもありません。

日本で社会というと、何か大きな単位のように感じるかもしれませんが、
社会の最小単位は家族です。
ですから、父に認められなかったということは、最小単位の社会における承認に失敗した、
ということです。
構成する人員が少ないので、誰も認めてくれないということが起こりやすいです。

けれども社会は自分の家族だけではありません。
会社も1つの社会だけれども、学校でも地域でもサークルでも、
すべて社会の1単位です。
(インスタグラムというのも社会の1単位ととらえていいでしょう。
そこで承認されるためには、お買い物自慢がいい、ということになってるのでしょう)

会社で認められるということは、利益を上げるということなので、
日本の女性でその機会が与えられている人は少ないでしょう。
また、働いていない主婦の場合、家族という社会の単位では、
夫が父の代わりとして承認してくれないのなら、やはりその試みも失敗します。
(多くの女性は、夫を父の代替品として使い、父の役割を要求します。
しかしそれが得られないとなると、とたんに冷淡になります)

けれども、社会とはなにも会社や家族だけではありません。
(もちろんインスタグラムやフェイスブックだけでもありません)
そして利益を上げることだけが、社会的に認められるという意味ではありません。
(今の日本は、その点が重要視されすぎています)

どんな形であれ、社会という単位で何らかの役割を担い、認められる存在になれば、
承認欲求は満たされます。
あなたがいてよかったと思われたり、誰かの役に立つことをしたり、奉仕したり、
そんなことで承認は得られます。
親が愛を与えてくれなかったことによる葛藤は、
努力するためのエネルギーとなります。

その葛藤をエネルギーとして努力するかどうかは選べます。
努力しない人生の人もいます。
けれどもそれはその人の人生ですから、私たちが口出しする必要はありません。
努力しないを選ぶのもいいでしょう。

けれども、本当に人生に満足するためには、
努力して自分で自分を認められるようになる以外ありません。

私たちは、葛藤という努力するためのエネルギーも、
そしてそれを実行する機会も与えられています。
それを利用するもしないも、それぞれの自由です。


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2017年8月16日水曜日

服は何の代替品だろう?

スイーツは、特に乳製品と砂糖は母の愛の代替品として用いられるが、
服は何の代替品だろう?
どちらも依存性があるが・・・
わからないので、ここに疑問を投げかけておく。

え、まさか、父の愛の代替品なの?
そ、そうなの?

しかし、スイーツが内側をかりそめに満たすとして、
服は外側からのかりそめの承認を得るための道具だものね。
そうか。
父は社会性という意味だから。
似合うって言われたい、おしゃれって言われたいという欲求は、
お父さんに認めてもらいたいってことなのね。

スイーツは母の愛の代替品、
皮膚の外側の殻である衣装は、父の愛の代替品か。
過度にそれを求める人は、
幼少期にそれを親から与えられなかった、
もしくは与えられなかったと感じたんだね。
お父さんに認められなかったと感じている(もしくは無意識にそう感じている)人は、
服を買っても買っても、まだ足りないと感じる。
そして誰かに似合うねとか、おしゃれだねと言われることを熱望する。

けれどもスイーツも衣服もしょせん代替品。
決して満たされることはないんだよ。
スイーツをいくら食べても、あなたが欲しかった母の愛のかわりにはならないし、
服をたくさん買っても買っても、父の愛、つまり父から承認されるということのかわりにはならない。
どんなに買っても買っても足りないと感じるのは、
まだまだ父が認めてくれないと思っているから。

じゃあどうしたらいいか?
あなたが自分自身の父と母になるしかない。
そして自分で自分に愛を与え、自分で自分を認める以外に、
それを満たす方法はないです。


夏の雨、それからブレザー

夏の雨である。
日本のファッション業界は雨に対して無頓着すぎたのではないでしょうか。

売れないとか言っていますけれども、
しっかり雨に対応した服を提案していれば、
それなりに売れたと思います。
だって、雨が降るたびに、出かけるとき何を着ようか、
何を履こうかって、みんな、悩むのですもの。

これは何でもそうだけれども、
現実に対する正確な認識がないと、
適切な対処方法はわかりません。

真夏に梅雨に着るようなレインコートは暑くて着られないです。
私は、近所へのお買いものなんかはスポーツウエアで行っちゃうけれども、
そうじゃないときはどうするの?

私は、そうじゃないときは、
濡れるのを承知で格好つけたスタイルで行ってしまいます。
そして靴をだめにしたりする。

日本には梅雨、夏の台風、秋の長雨に対応した服装が必要で、
それは十分に売っていません。

これはみんなも声を大にして、
売ってない、売ってないと言っていいと思います。
そして、言い続けてメーカーに作らせましょう。

あと全然違う話ですけど、
ジャケットとブレザー、どこが違うのということです。
ブレザーはジャケットに含まれますが、
ブレザーと言った場合は、スーツとしてではなくて、ジャケット単体で売られているものもあるようです。(スーツで売られているものもあります)

ブレザーのBlazeは、炎という意味で、
イギリスのどこだかの大学の学生のメンバーが、
あたかも炎のような色合いのジャケットを着ていたことからそう呼ばれるようになったと、
以前、H&Mのコラムに書いてありました。
だから、ブレザーって、本当は赤い色のもののことなんですね。
現在は赤ではなくてもブレザーと呼びます。
今年はブレザーがちょこちょこ出始めているので、
何にでもブルゾンじゃなくて、テイラードカラーのジャケットというスタイルが多く提案されそうです。

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2017年8月15日火曜日

衣装から入る、というのはあり

芝居だったら当たり前ですが、
その役の衣装を着たら、
それなりにその気分になります。
姫だったら、姫の衣装を着れば、
姫気分になる。
姫気分になれば、動作やしぐさも姫となり、
周囲も姫として扱うようになります。

これは詐欺師の手口も同じ。
よく偽物医者とかいるけれども、
あれも白衣を着て、それなりの格好をしたから、
周囲は医者として扱う。で、だまされるわけ。

小さいレベルでこれはもう既に多くの人がやっていて、
「お嬢様ルック」というのはその典型。
お嬢様がどういう人のことだかよくわからないけれども、
お嬢様風の服を着て、お嬢様の気分になり、
周囲にもお嬢様として扱ってもらう。
それは似合うとか、似合わないとかの問題ではないです。
どんなに作業着がお似合いでも、
お嬢様に見られたかったら、お嬢様風のものを着るでしょう。

他人から似合うと思われたいと言うけれども、
それは決して、「その作業着似合うね」とか、
「さすが、そのコンビニの制服似合うね」とかではないはず。
そうじゃなくて、
自分が目指しているスタイル、
もしくは自分の憧れのルックが似合うと言われたいのでしょう?

例えば中学のとき、その中学の制服が大嫌いだとして、
「あなた、その制服がよく似合うわね」とか言われたところで、
うれしくも何ともない。

みんな、似合うって言われたいのは、素敵なドレスとか、
憧れの何かとか、そんなのでしょう?

似合うにこだわる場合、
コンビニの制服が一番似合ってしまったら、
それを着るのが一番よいとなります。
似合うにプライオリティを置くとはそういうことです。
似合うかどうかは、あなたの意思とは違うところで決定されます。
それは本当に受動的。

けれども、自分の理想に近づきたかったら、
そして本気でそうなりたいのなら、
なりたい自分の衣装を着て、
それに近付くための行動を起こす。
そんなふうに衣服を使うのがいいと、私は思います。
(もちろん受動的に生きたい人は、そのまま受け身でどうぞ!)


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2017年8月14日月曜日

褒めない人のほうが多数よ


誰かに過度に認められたい、褒められたいと脅迫的にいつも感じているのは、
幼少期に親(女性の場合は特に母親)に認められなかった、
または認められないだけではなく、否定された人が多いです。
彼らは、他人に対しては過度の承認や称賛を望みますが、
自分からはほとんどそうしません。
またはするためには、非常に勇気を必要とします。
なぜか。
彼らの親がそれをしなかったため、どうやって他人を承認したり、称賛したりしたらいいのか
わからないからです。
過度に求めるけれども、自分は決して、またはほとんどそれを他人には与えないため、
戻ってこないという悪循環に彼らは陥ります。
(もちろん天真爛漫な性格で、
誰に対しても認めたり、褒めたりする人たちも一部いますから、
そういう人たちはリターンなくしても認めたり、褒めたりしてくれます)

おしゃれだね、似合っているねと言われたい気持ちはわかります。
けれどもね、天真爛漫人口のほうがだんぜん少ないの。
天真爛漫な人ではなくても利害関係があったら褒めてくれますよ。
お店の人とか、取引先とか。(なんか売りたい人か、奪いたい人か)
でもそうでなかったら、褒めない人のほうが圧倒的に多いです。

あのね、100点を取っても絶対に褒めないお母さんって、いるの。
そんな人が、あら、すごくおしゃれねとか、言うわけがないの。
どんなに頑張ったって、きれいになったって、勉強ができたって、
褒めない、認めないという人は驚くほどたくさんいるんです。

だから、誰かからおしゃれとか、似合うとか、そんなことを言われるのを待つことはないのです。
認めるかどうか、言うかどうかは私たち自身の問題ではないから。
あなたがおしゃれじゃなくて、きれいじゃなくて、勉強ができなくて、稼ぎが少なすぎるから
褒められない、認められないんじゃなくて、
その人には他人を認めたり、褒めたりする能力がないんです。
(無視したり、否定したり、けなしたりする能力はありますよ。その人の親と同じようにね)

誰かに言われるのを待つのではなく、
自分で自分のことがわかって、認められるようになることが大事です。

どんなに素晴らしい作品でも、見ない人は見ないし、
認めない人は認めません。
認めたとしても、表立って言わない人もいます。
誰かにに褒められるのを待つ人生なんて不毛です。

誰も褒めてくれないって思ったら、人はそんなもんだと思ってください。
そして、あ、そうだった、うちの親も褒めなかったなと、
思い出せばいいのです。


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